「他人の考察で原作を楽しめなくなった」それは自分の目で見ていないから/カレー沢薫の創作相談

他人の考察で原作を楽しめなくなった
私も考察を見るのは大好きです。
むしろ映画を見終わり帰宅後、グーグルの検索窓に「サードインパクト とは」と打ち込んだ瞬間から「本編」がはじまると言っても過言ではありません。
しかし私自身は考察を全くといっていいほどしません。というか「できない」と言った方が正しいです。
例えば人気ソシャゲ「Fate/Grand Order」には、歴史上の人物、または有名な架空のキャラクターなどが登場人物として出てくるのですが、登場時は「真名」を明かしていないことがままあります。
ストーリーを進めることにより正体が明かされるのですが、その前にキャラのデザインや言動から「あの人物ではないか」と、考察するプレイヤーもおり、それを楽しみにしている人もたくさんいます。
しかし私はそれができません。何故なら満を持してゲーム内で真名が明かされても「だ、誰や君!?」と、「スペシャルゲストです」と言われてスモークの中から知らないおじさんが昴を歌いながら出てきたときの顔になることが「9割」だからです。
つまり、制作者が「はりきって考察してください」と、どれだけセリフなどに匂わせやヒントを散りばめようが、プレイヤーが元ネタとなる人物のことを一切知らなければ「なんかこいつ、ちょいちょい意味の分からないポエムみたいなこと言うな」としか思わないのです。
このように、考察をするにはまず「広い知識」が必要なのです。
もちろん考察には「この人物は誰でしょう」のような、社会のテスト系だけではなく「このセリフを言ったときの登場人物の心情を答えなさい」みたいな国語系もありますし、むしろこういう問題に命を救われてきた文系のバカもいます。
こういう国語系考察なら必ずしも知識は必要ではありません。
しかし、日常生活ではテストのように、映画やマンガを見ているとき「ここに作者は重要なもの埋めてまっせ!」とばかりに「このキャラはどんな気持ちでこの言葉を言ったと思いますか?」と横から教えてくれる人は普通いませんし、いてもウザいです。
つまり自分で「このセリフには言外の意味があるのでは?」と気づく「鋭さ」や、それを「疑問に思い、解き明かそうとする姿勢」が必要になってきます。
私にはそれもなく「このキャラは『月がキレイですね』と言った、なるほど月がキレイだっんだな」としか感じないのです。
どれだけ優れた考察だとしても「本物」は原作だけ
「考察」というのは、作中にはっきりとは描かれていない何かに気づく洞察力、さらにそれをそのままにせず「あれれおかしいぞ~」と深く突っ込むコナン力、そしてときには深い知識を持った、選ばれし者にしかできない行為なのです。
私は残念ながら履歴書の書類選考段階で選ばれませんでしたが、それでも根がオタクなので、この作品やキャラのことをもっと深く知りたいという気持ちだけはあり、選ばれし者な上に深い考察をタダでネットにあげてくれている人には頭(ず)が上がりません。
「原作の展開が地雷」と言うと、自分の妄想が正しいと思い込んだ痛いオタクが怒っているだけのように聞こえるかもしれません。
しかし、妄想には違いないかもしれませんが「この二人がこのコマとコマの間でキッスしているのを見た」など原作を完全に無視した妄想をしている人は少数派です。
むしろ誰よりも原作を読み込み「いつもよりコマ間隔5ミリほど広い、つまり二人はキッスしている」という風に、ちゃんと原作に描かれていることを元に、それこそ「考察」を重ね、自分の解釈を作り出している人もたくさんいます。
そういう読者からすれば、今まで積み重ねてきたものを無視するような展開、さらにそれに対して何のフォローもなければ「納得いかない」となるのも仕方がありませんし、読者を納得させられなかったのは作者の実力不足と言えなくもないです。
しかし、考察や二次創作というのは、文字通り「一次」つまり、原作やそれを作る作者なくしては成り立たない趣味です。
よって、どれだけ優れた考察や「野生の公式」みたいなタグをつけられるような神二次創作でも「一次より正しい二次」はありえません。
一次の展開がどれだけクソでも、それが「本物」であり、どれだけ優れた考察や二次創作をしてもそれを越えることはできない、というのが、他人が作りだした物をこねて遊ぶことを趣味にした者の宿命であり、それが嫌なら自分が一次生産者になるしかありません。
モヤつくのは他人の目を通してみているから
しかし、正しさで一次を越えることはなくても、一次と同じやそれ以上、魂が込められた考察や二次創作というのは存在するため、そういったものを見てしまうと引きこまれてしまい、あなたのように原作を見る目自体が変わってしまうということも良くあります。
人の意見に影響されると言うことは「人の意見を受け入れることができる」ということでもありますし、考察を見るのが好き、というのも「この作品に対する他人の意見も聞きたい」という、柔軟さがあるということです。
ただ、他人の考察というのはあくまで「自分の視野を広げるため」に見るものです。
自分の目では推しの斜め45度キメ顔しか見えないので、ドローンを飛ばし真上から見ている人の目を借り、自分には見えなかった推しの一面に気づいて「俺も今度、推しを真上から見て、二つあるらしいつむじを自分の目で確かめてみっか!」となるためのものです。
今あなたは、逆にその方の考察ツイートに目を塞がれてしまい、原作や二次創作を、自分の目ではなく、その方が飛ばすドローンのカメラ越しに見てしまっているのではないでしょうか。
他人が操縦桿を握っているのですから、自分が思うように見ることができず、モヤついてしまうのは当然です。
その方の主張を忘れようとするのではなく「そういうのもあるのか」と、井之頭五郎ばりの懐の深さで受け入れた上で、今一度自分の目で見ることを意識して原作を読めば、逆にキャラの新しい一面、もしくは新しい一面の幻覚が見えて、むしろ以前より原作を楽しめるようになるのではないでしょうか。

カレー沢先生こんにちは。創作とは若干離れるのですが、「考察」との付き合い方について悩んでいます。
私は作品考察やキャラ考察を読むのが好きで、よくそういったエゴサしています。
そんな中、原作のある展開がキャラ考察の根幹を揺るがすほどの地雷だったらしく、登場キャラや作者への不信感を吐露されている人がいました。
それを見て「いやそんなん原作者の勝手じゃん、押し付けんなや」半分、「まぁこのキャラ好きな人からしたらな…」という気持ちに……。けれど、それまでは良かったのですが、なんだか原作を読んでも件のツイが引っ掛かりモヤモヤ、二次創作さえ前より楽しめなくなってしまいました。
ここまで影響される自分にも驚きましたが、何より他人の意見に左右される自分の原作への愛はその程度だったのかと思うと悔しいです。どうしたら前のように楽しく原作と向き合う事が出来るしょうか。