小説家志望さん必見!三浦しをんと盃をかわす、豪華すぎる「小説講座」潜入レポート
講座本番!「目からウロコ」の講評タイム
3階にある研修室に移動すると、会場は50名以上の参加者の熱気にあふれていました。三浦さん、編集者の国田昌子さん(徳間書店)、そして評論家の池上さんが登場し、講座がスタートします。
講座は合計2時間ほど。前半に、参考テキストの講評が行われ、後半は講座をとりまとめる池上さんと、三浦さんによるトークに移ります。
今回のトップバッターは、新堂さんの「へっぽこへたれおぼこ」。タイトルが印象的な同作は、新堂さんのおっちょこちょいぶりにフォーカスした内容で、ほっこりした読み味です。
参加者からも「タイトルにおかしみがあって良い」「わが道を行く新堂さんの様子があらわれていて良い」という感想が出ましたが、ここでベテラン編集者・国田さんから鋭い意見が飛び出します。
「新堂さんを知っている人にとっては、微笑ましく読めますよね。ただ、エッセイというのは、作者の日常を書いたとしても、『作者本人のことを知らない人にとってもおもしろく読める』ことが大事なんです。この作品は、新堂さんを知っている人にしかわからない『自慢エッセイ』になっている。もっと丁寧に書かないと、伝わりません。」(国田)
広い読み手を想定した国田さんの言葉には、どこまでも参加者一人ひとりを「1人の書き手」として扱うリスペクトが感じられます。ここでさらに、三浦さんから追い打ちをかける指摘が。
「国田さんはこれを『自慢エッセイ』と言いましたが、新堂さんは『自虐エッセイ』だと思って書いているんじゃないかな? 自虐というのは一見書きやすいものに思えますが、実は高度なテクニックが必要です。どこまでも自分をつきはなして、計算高くやらないといけない。
たとえば新堂さんは前半で『朝は苦手なねぼすけさんの私』という表現を使っています。これは、文章の中の自分と書いている自分の距離が、まったくとれてない証拠です。『自慢エッセイ』だと思っている人がいるのも、そのせいなんですね。ものを書くときの姿勢が素直すぎるので、そこに気をつけてほしい。」(三浦)
言われてみれば、たしかに……。テキストを一読したときに何となく感じていた「違和感」が、論理的かつ正確に言語化されていき、聞いていると「あ〜、そこか〜〜!」と、かゆいところに手が届いたような快感があります。
怒涛のレビューが続く
その後、円さんの「フライ」、穂積さんの「カレーライスの歌」の講評でもウロコはオチまくり。
「主人公の性格が一貫しているし『死ぬ前って、今考えなくてもいいこといろいろ考えちゃうんだろうな』ってすごく納得させられました。
ただ、笑っちゃうだけじゃなくて怒りも感じる小説。夫の翔太郎が本当にダメな人間なんだけれど、彼が自分では家事ができない人間── 私からすると奴隷以下── になっているのは、主人公のせいでもあるんですよね。その状態に対する彼女の怒りが伝わってくるところがいいです。
だから、私はこのオチに賛成。彼は奴隷のままだし、彼女は自由になったんだから、彼に対して復讐する必要はないんですよ」(三浦「フライ」講評)
「この作品は、男2人の友情の話なんだけど、この2人って、学生時代にそんなに親しかったように見えないんですよ。友達って言えるんでしょうか? この2人。田辺の『山田に本当はあこがれている』部分を前半できちんと書いておかないと、彼が山田をバカにしてるように見えちゃう。 そこを丁寧に書いてほしいし、単語の選び方ももっと推敲してほしい。
学生時代の回想シーンで『女子からも懐かれていた』って表現がありましたけど、女子は犬猫ではありません。」(三浦「カレーライスの歌」講評)
詳細は是非、講座内容をまるまる起こした「講座だより」で確認してほしいのですが(なんとこの講座、過去の講座内容ピクシブ文芸で読めるのです……ピクシブ文芸……おそろしい子……!)、とにかくパンチラインの連続で、一参加者の私まで、目からウロコが落ちまくりでした。
作品を通じて浮き彫りになる、書き手の「正義感」
参加者のみなさんへのインタビューでも「技術以外のことを学べる」という発言がありましたが、作品を書くときの「思想」と、実際に表現を行うときに用いる「言葉」には、おそろしいまでの関連性があるのだ、ということがしみじみと伝わってくるのです。
三浦さんの作品は私も数々読んできたのですが、名作をかたちづくる一文一文の裏には、ここまでストイックに磨きあげられた創作観があったのか……と痛感し、その場で五体投地したくなるような感銘を受けました。もはや「講座」というより、この時間自体がひとつのエンターテイメントのようです。
そのパッションがとくに高まったのが、水上春さんの「私たちは肉を食べる」の講評。
同作は、少子高齢化が劇的に進み結婚や出産が是とされている世の中で、「子供を産まない」ことを選んでいる人たちを肯定する意図の含まれたディストピア小説です。まさに三浦さんが理想とするところの「世の中に新しい価値観を提示する」タイプの小説と読めました。しかし、三浦さんが指摘したのは……水上さんの小説のなかにあらわれた「一面性」でした。
「主人公夫婦の繊細さの描写がすごく良かったですね。繊細な人たちがこういう社会のなかで生きないといけない……というところが、まさにこの設定で書く意味があるものだと思いました。
ただ、私が納得いかなかったのが、モブキャラ……とくにいやな女キャラの描写ですね。
別々のシーンで1人ずつ、嫌な感じのモブ女が出て来るんですが、その2人がどちらとも、胸を強調した派手な化粧の女として描かれているんですね。全然別の人間なのに、似たような女なんです。
この小説では、子供を産まないという選択をする夫婦を描くことで、社会の『一面的なものの見方』を風刺しているはずですよね。それなのに『派手な格好してる女は性格が悪いビッチ』という、一面的なものの見方が透けていて、それが非常に残念でした。
自分自身のありのままの正義感を作品に出すなとはいいません。ただ、うかつに正義感を出すと作品の軸がぶれてしまうということを自覚してほしい」(三浦)
小説を生み出すのは、書き手の想像力です。だからこそ、本当に自由な発想で新しい価値観を提示したいなら、書き手自身が自分の想像力をくまなく点検し、ひとつひとつの描写に注意をめぐらせなければならない。
三浦さんはこのことを、池上さんとのトークセッションでもたびたび強調していました。実際、最近新人賞の候補作を読んでいると、キャラクターの類型化・一面化が目立つのだとか。
「物語をつくるというのは、ある種物事をひとつの構造に落とし込む作業です。でも、それをやるうえでは、人物像をステレオタイプ化してはいけないと思ってます。ステレオタイプ化するというのは、規制の常識・概念のほうに寄ってしまうことなんです。
つねに『自分とは違う考え方をしている人がいる』という想像力がないと、小説を書く意味はありません」(三浦)
「小説のなかに、自分で新しい『倫理』をつくれる人が、小説家ですよね」(池上)
プロフェッショナルの創作観の真摯さ、思考の深さに打ちのめされまくり、講座は幕を閉じました。